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むすびカフェ『千人の蔵』

Posted on 2014-07-10

高千穂町  岩戸 五ヶ村

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むすびカフェ『千人の蔵』は
おじいちゃんたちの夢の形でもある

「むすび」とは
人と人とをむすぶこと
昔と今とをむすぶこと
今と未来をむすぶこと
作る人と使う人をむすぶこと
作る人と食べる人をむすぶこと
つまり「暮らす」を
人の手から人の手へ
伝えていくこと

 

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背の高い栴檀と杉の林に囲まれて石造りの蔵がしっとりと佇む。開け放たれた玄関から裏口へ、涼しい風が吹き抜けているのが目に見えるような清々しい空間。

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この5月にオープンしたばかりの「むすびカフェ千人の蔵」運営するのは藤木哲朗さんと濱田典子さん。ふわりと優しく握られたおむすびと2種のカレー、手作りのスイーツにコーヒー、紅茶。シンプルなメニューを丁寧に提供してくれる。
この日はお菓子作りに協力してくれている小林菜美子さんが一歳の美心ちゃんをおんぶして、い草のパウンドケーキ作り。焼き上がったケーキに「ん、美味しそう」と笑う。

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高千穂には『こびる』という文化がある。早朝からの長時間に及ぶ労働、山間部の不便な生活の中で村人たちが編み出した小さな幸せ。昼食の他に、仕事の手を休めて食べる軽食のこと、「小昼」と書く。藤木さんは地元の若者たちが立ち上げた『こびる研究会』のメンバーでもあり、食と農、手仕事、森や水との関わり、つまり暮らしを見つめることをライフワークにしてきた人だからこの場所でむすびカフェを開く事は自然な流れだったのだろう。しかし、ここに至るまでのドラマはもっと興味深い。
そもそも、この石造りの立派な蔵は元からここに建っていたものではない。2009年、隣町の日之影町から移築されたもの。さらに一段下がった広場に建つ民宿『神楽の館』、この大きな古民家も1996年から数年をかけてこの場所に移築されたものなのである。膨大な労力と費用をかけてその難事業を完成させたのは20年前、平均年齢六十歳だった9名、『五ヶ村村おこしグループ』のおじちゃんとおばちゃんたちだった。

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五ヶ村は元々水が乏しく水田の少ない貧しい土地、大正時代に村人たちが土地を担保に借金をして取り組んだ溜め池事業も地質が悪いせいで水が溜まることなく失敗。借金だけが残り、多くの山が人手に渡るという苦い体験は払いきれない雲のように村人たちの心に残ってきたのかもしれない。実りや豊かさの象徴である石の蔵などとは縁遠い五ヶ村ではあったけれど、それだけに村人たちは助け合い、少しずつ田畑を開き、慎ましく生きてきたのである。
平成の時代に入り村に変化の時が来る。町営の温泉が五ヶ村に開業したのである。『五ヶ村村おこしグループ』の立ち上げからこの春まで代表を務めてきた工藤正任さんらはこの温泉を活用して村おこしを進めて行く覚悟を決める。農産物やだんごの販売、うどんなどの食事を提供しながら少しずつ村おこしは軌道に乗って行く。
その後、後継者不足、生活様式の変化で毎年『神楽宿』に選ばれた民家で夜通し舞い続けられてきた夜神楽の存続が難しくなった時、グループは隣町で明日にも解体、廃棄されようとしていた古民家を引き取る事を決める。メンバー個人の出資、借入れ、補助金などをかき集め、3年がかりで村の夜神楽の未来を託す事の出来る『神楽の館』は完成したのである。

六十歳から始めた村おこしは20年目を迎えた。工藤さんは八十歳を期に、グループ設立メンバー最年少であった佐藤光さんに代表を譲った。5年前に一口一万円の出資を募り『千人の蔵』を移築したのは、未来永劫に残るであろうこの石の建物が、千人の協力で建設され、この先もっと多くの人たちが集う場所であり続けてほしいと願ってのこと。
派手な事ではない、生まれた土地に寄り添って丁寧に暮らす、暮らし続ける幸せは着実に若い世代に受け継がれている。
「時代をこえてむすぶ、人と人をむすぶ」それが千人の蔵。

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足りている暮らし

Posted on 2014-07-10

美郷町南郷 渡川地区

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「渡川ONE(ドガワン)の部屋というのがあるらしい。」美郷町の役場でそう聞いた。

閉校した渡川中学校の元校長室がそれである。約束の午後5時に訪れてみると、4人のメンバーが賑やかに迎えてくれた。応接セット、事務机、額、「きっと僕らの内申書も入ってるはずですよ…」という鍵付きの大きな開かずの書類庫。もしここが閉校されてからの9年間放置されたままだったらどんな様子だろうか?と想像しながら話を聴き始めた。
と、すぐに遅れて来たメンバーが入って来る。名刺を交換すると、薄い杉の板の名刺に書かれた肩書は「山師」、赤と白のツートーンのしゃれたデザインの名刺は「簡易郵便局長」。そうか、皆仕事上がりで集まってくれたんだと改めて思う。時刻は午後5時15分。
「でも…皆さん仕事は?もう終わったんですか?」
「だいたいこんなもんですよ。
夜は野球の練習もあるし、消防団もあるし、何も無けれは庭でバーベキューですよ。」
一同爆笑はしているものの、
それは案外誇張でないらしいという予感は数日後には確信になったのである。

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美郷町南郷の中心部から峠一つ隔てて、ダム湖と水の美しい渡川沿いにぽつんと開けた渡川地区は住民およそ300人、その内約100人が40歳以 下の若者と子ども達。超高齢化が進む県北の山間部にあって、この若者の多さは驚くべきこと。しかもそれはここ数年の間で起きた変化だという。この集落のど こにその秘密があるのか?その時には全く見当もつかなかった。

渡川の子ども達は高校進学と同時に村を出る。自宅から通学出来る範囲に高校が無いからである。その後も多くの卒業生たちは都市部に残り、村に戻ってくる若者は少ない時期が長く続いてきた。必然、子どもの数が減り9年前に中学校が閉校、5年前には小学校も閉校が決まった。

当時、盆や正月の度に集まっては故郷の未来を憂いていた若者たちは、小学校の閉校という村にとっては致命的な出来事に背中を押された形になる。特に結束力 の強かった昭和56年生まれの同窓生を中心に渡川ONEを立ち上げ、まずは閉校する渡川小学校の思い出のシンボルとしてTシャツを制作した。渡川が寂しく ならないようにと校庭に多くの鯉のぼりを架け、イベントを開催した。子ども達に渡川の自然の素晴らしさを知ってもらうために『渡川自然塾』を開いた。一世 代若いグループである青年団も当然協力する。父ちゃんや母ちゃんたちも引っ張られる。自然な流れとして村は活気づいていったのである。前後して都会にいた 若者が親の仕事を引き継ぐために帰ってくる、お嫁さんを連れてくる、子どもが増える。いつも笑いが絶えなくなる。
過疎化とか限界集落という言葉の暗さは、 ここには少しも感じられなくなった。

草野球の試合があると聴いて観戦に行く。お嫁さんや子ども達の後ろで、一球、一プレーごとに一番熱 心に声援を送っていたのは彼らのお母さん達であった。一点差のゲームに競り勝ちベンチに戻った瞬間、渡川ONEのリーダーでこのチームでもバッテリーを組 む上村太樹さんと黒木豪志さんの一声で祝勝会が決まる。公民館で焼肉、会費は千円。見事な統率とフットワークで30分後には乾杯、遅くまで賑やかな笑い声 が、谷間の村に響いた。

渡川の元気と活気の秘密、若者が輝いている理由は、結局分からないままだったが、渡川のファンになった事は確か。不思議に思う人は一度訪れてみると良い、そして出会った人に声をかけてみるといい。きっとすぐに友達になれる。
そしてこんな質問をしようとしていた自分が恥ずかしくなるに違いない。
「コンビニがなくて不便じゃないですか?」

いえいえ、これで十分足りているのです。

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久喜さんと命の話

Posted on 2014-07-10

椎葉村 尾八重

命を見つめ、慈しみ、育み続けてきた八十年
椎葉の久喜さんなら 人も動物も植物も、ついみんな言う事をきいてしまうのです。

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牛たちが集まってくる。谷の放牧場、那須久喜さんは母牛に種付けして、生まれた子牛をある程度まで育てて出荷する繁殖農家。ここにいるのは母牛と去年ま でに生まれた子牛たちだから怖くはないと自分に言い聞かせてはいるものの相手は何頭もの子牛を産んできた肝っ玉母ちゃんぞろい、訪問者は久喜さんのかげに 隠れるように遠慮しながら写真を撮らせていただいた。
久喜さんが思い出を語る。
ある二月の寒い朝、出産を控えた母牛が凍てついた地面に 足を滑らせ転倒し足を骨折、再び立つ事が出来なくなった。獣医と相談してやむなく子牛の命だけを救うことにした。未熟なまま生まれてきた子牛が寒さに凍え ないように、久喜さんはそれから幾晩も牛小屋に子牛を抱いて眠り続け、なんとかその命をつなぐ事が出来た。久喜さんにとって牛は、いや犬もニワトリもミツ バチだって家族なのだ。

もう一つ命の話。
平成16年頃から全国的にミツバチが激減した時期がある。蜂蜜の生産だけでなく農作物の受粉にも影響が出るほどに日本列島からミツバチが姿を消したのである。
九州山地の奥深く、見渡す限り森林の続くここ椎葉でさえその影響を免れなかった。山々や畑の様子も、空の色も谷川の水も何も変わっていないように見えたの に、ミツバチだけが数を減らし始めた。そしてその翌年、その次と2年間はついに一匹のミツバチさえも久喜さんの巣箱を訪れなかったのである。
もう二度とミツバチは戻ってこないかもしれない、あきらめかけていたていた3年目の10月18日、日付もその時の状況も克明に覚えているという。一匹のミツバチが仕事をしていた久喜さんの唇にとまった。

驚き手にとって「どこから来た?どこから来た?」と尋ねているところへ、妻の久子さんが知らせにきた、一つの巣箱に10匹ほどのミツバチが来ているという。時刻は午後三時半、慌てて巣箱に駆けつけると間もなく、ミツバチの群れが羽音をたてて引っ越してきたのである。
その秋、久喜さんはか弱い唯一のミツバチの群れを守るために、以前とっていた蜜を含んだ蜂の巣をエサとして巣箱に補給しながら、まるで子牛を毛布でくるん で一緒に寝た時のようにミツバチたちを守った。翌年その一つの群れは、なんと二十もの群れに分かれて、それぞれに久喜さんの準備していた巣箱に入ったので ある。たった一匹のミツバチが知らせた一つの群れから・・・再び山や畑にミツバチがあふれたのである。

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それほど工夫をしているようには思えない久喜さんの巣箱をミツバチたちが選ぶのは・・・やはり愛情のせい?と思えてしまうから不思議である。

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蜜と花粉を集めて帰ってくるミツバチ、その一匹一匹を慈しむように見つめる久喜さんだった。久喜さんはミツバチの群れを素手で抱える事も出来るが決して刺される事はないそう。

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久子さんとは仲むつまじい夫婦、二人の子どもに望む教育を受けさせると決めて働いてきた。今は孫の成長、活躍が楽しみ。夫婦の慈愛に満ちた人生はその笑顔ににじんでいる。

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誰が来てもふるまわれる産まれたてのゆで卵、蜂蜜は巣ごと食べる。ミツバチたちの気の遠くなる働きの結晶を心していただく。


椎葉村尾八重 松木地区の優しい三人は、
あら不思議『久喜さん、久子さん、喜久子さん』でした

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「おとうさんがこの民宿をのこしてくれたから」

久喜さんの家の下には緑に囲まれて、森の民宿『龍神館』がある。手打ち蕎麦や、優しい味の山菜料理、静かで清潔な部屋を提供してくれるのは椎葉喜久子さん。
林業家だったご主人に嫁ぎ山仕事をしながら子ども達を育て、夫婦で協力して民宿を開業した。ご主人は先に天国の人となった今、喜久子さんは毎日「おとうさん」に感謝しながら、時に心で語り合いながら、県外から多く訪れる登山者や釣り客を心からもてなしている。
「おとうさんがここを残してくれたから生きて行ける」と。

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門川の干物は大人気

Posted on 2014-07-10

門川町

門川といえば干物、たくさんの加工所で魚を開いて、あるいはそのまま塩をして干す。シンプルな作業が毎日毎日繰り返される。 潮風と太陽が魚を更 に美味しくしてくれる天日干し。何と言っても昔ながらの天然の美味しさが魅力だけれど、見張りがついていなければ、すぐに猫やカラスが頂戴しにやって来 る。彼らにしたら当然の事だろうが、作る人にしてみれば困ってしまう。だからこんな看板が要るんですな、猫様も文字が読めると見える。

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一方、最近では少々様変わりしてきた部分もある。季節や天候や猫やカラスの気分に左右される天日干しでは安定して大量の干物を作れない。そこで老舗で大きな加工会社は衛生的で機械化された生産設備を整えてきた。

昭和初期に門川で鰹節を作り始めた水永水産は、煮干しやちりめん、そして干物の生産と規模を拡大し、現在では三つの加工場で県内屈指の生産量を誇る老舗である。
黒木常務の案内で加工場を見学させていただいた。白衣にマスク帽子に長靴を着用、エアーシャワー、足下消毒をすませて中に入る。
猛烈なスピードでステンレスの網に並べられるホッケ、背開きも専用の機械であっという間。温度管理された乾燥室で風に当て、一番美味しくなった瞬間に今度は一気に冷凍される。
ああ、これならどのホッケを取っても変わらずに美味しいはずだ。猫やカラスにかっさらわれる心配も無いばかりか、髪の毛一本くっつく心配もない。こうやって全国の人が安心して毎日干物が食べられるんだ。
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あまりにもシステム化された加工場に少し拍子抜けした感があったが、昼休みの休憩室にほっとさせられた。サラめし中の従業員さんたちのにぎやかな笑い声は確かに港町門川のお母ちゃんたち。この人たちが作っているんだから美味しい事間違いなし。

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「それじゃ誰だか分かりませんが・・」
最後まで、マスクを外さなかった黒木常務
「衛生管理が一番大事ですから」と これも職人魂ですね。

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日之影の二人の達人

Posted on 2014-07-10

日之影町

天然クーラーと天然うなぎの蒲焼き
涼しい、おいしい、達人に会えてよかった

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森と川、二人の達人を訪ねた。

森林セラピーの基地に認定されている日之影でセラピストとして、『癒しの森の案内人』を務める髙見昭雄さん。
ただの散策や森林浴と混同されてしまいがちだが、森林セラピーには科学的な実証実験で確認された効果がある。確かに森に整備されたコースを歩く事が中心にはなるが、正しい歩き方やスピード、滞在時間を伝えながら一緒に過ごす事で森の持つ力を最大限に取り込み、ストレスから開放されたり、心身ともにリラックスできて健康な状態に近づける『療法』が森林セラピーである。
髙見さんは技術と経験を積んだセラピストであるけれど、いかにも自然体で、隣にいるだけですぐにリラックスしてしまう。癒してくれるのは森のフィトンチッドや清流のマイナスイオンだけではないようだ。

「どんな話をして歩くんですか?」
「そうですね、木の話、鳥の名前、虫の事‥‥ま、いろいろです。」
水の涸れている谷にさしかかると
「ここは天然のクーラーです。」と髙見さん。
振り仰ぐと緑のトンネルの奥から思わず両手を広げたくなるような清々しい風が絶えず吹き付けてくる。
明らかに森が吹かせている風だ。

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川沿いを歩く、水はまるでラムネのように透き通る

 

川の達人の朝。

「一尾くらい掛かっとけば‥‥」
と遠慮がちに役場の近くの五ヶ瀬川に下りて行った田中省二さんだったが、前日の夕方に仕掛けてあった10本ほどのうなぎの『つけ針』で、びっくりするほど大きいうなぎを7尾と型の良いヤマメを1尾釣り上げてみせてくれた。

子どもの頃から、何よりも川が好き、これからの季節は鮎釣りの日々、秋には山太郎ガニ、冬は山に入ってイノシシと鹿。ずうっと昔から人々がいただいてきた日之影の川と山の恵みを今も変わらず分けていただく。
獲物は息子さんと奥さんとで営む居酒屋でお客さんにふるまう事が多い。
「帰りに寄ってん、うなぎ焼いとくから」
と言っていただいたので、夕方お店に寄ってみると、今朝捕れの天然うなぎの絶品蒲焼きを供してくれながら奥さんが苦笑しておっしゃる。
「主人はもう、明日のつけ針を仕掛けにいきました。」
そういえば今朝、省二さんは少年のような目を輝かせながら言っていた。
このポイントでこれだけ釣れたのだから、川の対岸側にも必ず同じくらいうなぎがいる‥‥(ニヤリ)

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座敷には省二さんが河原の石に描いた魚や蟹の精密な絵が。その観察眼、器用さ、全く川とともに生きている人に違いない。

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「蒲焼きごちそうさまでした。」
本人は川なので、奥さんに丁重に礼を述べ、居酒屋『左近』を後にした。

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五ヶ瀬の特ホル丼

Posted on 2014-07-10

五ヶ瀬町

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今、話題のB級グルメ、ご飯に千切りキャベツを敷きつめた上に香ばしく焼いた特ホルを盛る。
『特ホル丼』の生まれた店を訪ねた。

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先代から引き継いだ『宮部の特ホル』は豚のハラミを丁寧に下ごしらえしてタレに漬け込む。三十数年前からあった商品だが、真空パックして遠くまで持ち帰ることが出来るようになった十年ほど前から口コミで人気商品に成長してきた。
黙っていてもお客さんが宣伝してくれる。常連さんが美味しい食べ方のチラシまで作ってくれる。特ホルを鍋にしたら美味しいと、スープも商品化。キャッチコピーは『消防団推選!』。
白ホルモンを美味しく食べるための塩は釣り仲間の名前をいただいて『黒塩二郎』と『紅塩直人』。

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そんな宮部さんのユーモアとセンス、商品の旨さ‥‥小さな町の人通りもほとんどない商店街の肉屋さんの繁盛の理由はそれだけではないはずだと思いながら奥さんや従業員さんたちの働きを見ていた。

と、近所のおばあちゃんが一人、店に来るなり椅子に腰掛ける。あれこれと肉を注文して、奥さんがそれを袋に詰める。
「ずっとここで買い物を?」
尋ねるとおばあちゃんは頭上の額を指して、恥ずかしそうに
「ずっと前から‥‥」と笑って答えてくれた。写真は今の店舗の向かいにあった以前の店と当時の価格表、ずっと変わらぬ常連さんだ。

買い物が終わると奥さんはキャベツが入った袋を抱えて、ごく普通の事のようにおばあちゃんを家まで送って行った。連れ立って歩いていく二人を見れば、なるほど、なるほど‥‥

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未来の夢はなんですか?と尋ねると、宮部社長はこう答えた。
「若い人たちに商売は面白いって事を分かってもらう事。そしてこの商店街に昔のように幾つもの店が並んで、地元の人、遠くから来るお客さんの笑顔があふれる事ですね。」

宮部の特ホルが売れるのは「美味しいから」だけでは無い。本当の理由がストンと腑に落ちたところで、
「ご夫婦で写真を‥‥」
お客さんの笑顔もいいけれど、ご夫婦の笑顔は、特ホルと同じくらい、いやもっと美味しいかも?ですよ。
はい、カシャリ!っと。

 

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美々津のおてんばさん

Posted on 2014-07-10

美々津町

掃き清められた土間、畳が障子越しの光を渡し返す。

廻船問屋だった旧矢野家に今は『美々津軒』の暖簾がかかっているが、ここは旅館でも古民家カフェでも無い。
ただ、訪ねてくる人が、上がり框や縁側に腰掛けて、大正時代まで多くの人や上方の物で賑わった華やかな時代を想像したり、全く対照的な今の落ち着きに身をゆだねるだけの場所である。
そして、そんなゆったりとした時間を共に過ごしてくれるのが、この家の一人娘として生まれ、
「時代が時代ならお姫様だったのよ。ま、じゃじゃ馬姫だけどね」と笑う、佐藤久恵さん。その屈託の無い笑顔には、確かにおてんばなお嬢様の影がありました。

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久恵さんは現在一人暮らし。神武天皇がここ美々津から大和へ向けてお舟出したという『神武東遷』神話を再現した昭和15年の大事業『おきよ丸』の船長だった父、矢野源吉さんが戦死した後、母のミキエさんはここで、商店を営みながら一人娘の久恵さんを育てた。
廻船問屋の女将として豪傑だった夫を支えた母は、「朝は邪気を払うために玄関から表に向かって箒で掃き出す。夕方は福を招き入れるために裏口へ向かって掃き清めるのよ。」と教える細やかな女性でもあったが、生きる事を楽しむ大らかな人でもあった。

高校を卒業して宮崎の洋裁学校に進んだ久恵さんは、授業をさぼり、実習の材料費としてもらったお金で映画ばかり見て過ごすようなおてんばだったが、お母さんは卒業した娘に
「あんたが縫った物は結局一つも見れんかった。」と笑ってくれたそう。

そのおてんばさんは結婚し三人の男の子を授かった。その後この実家に戻ってお母さんと同じく女手で、しかも大らかに三人の独立を見送った。

時代は昭和から平成に、美々津の町もかつての賑わいの影もなくなり、いつか生まれ育ったこの旧家に自分一人となったが、寂しいと感じた事は一度も無い。

か えって生来のおてんばに翼が生えたようなもの、六十歳をすぎてからは自分で車を運転し、一人でドライブ旅を楽しむようになった。予定を決めず、宿も予約せ ず、高速にも乗らず、ナビも使わず、最も遠い時は秋田まで行ったというから驚く。行き当たりばったり、出会った人とふれあって、外から自分の生活を見返し てみる。美々津の良さがよくわかる。
「日頃はあまり連絡を取らない息子たちも、旅に出るとさすがに心配して電話をかけてきますよ、孫にかけさせてるんですけどね、うふふ‥‥」

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「旅は心を豊かにしてくれる」

だからこの家を訪れる旅人の気持ちもよくわかる。
心に何か抱えている人も、疲れている人も見れば分かる。でもここではただ一緒にお茶を飲んで、のんびりすればそれでいい。時に話が終わらなくなったら向かいのカフェでコーヒーを飲む。
何度も訪ねてきてて、すっかり友達になった女性にさそわれて、今度は青春18きっぷでの電車旅に挑戦しようと思っている。
「もしも車が運転できなくなった時のための練習ね‥‥でも、その人の名前は知らんとよ。」
「え?」
また来てくれるから名前を聞く必要はないそうだ。

そういえば、僕も最後まで「あなた」のまま、向かいのカフェでコーヒーまでおごっていただいた。別れ際にお礼を述べると久恵さんの挨拶は
「はい、また会います。」だった。

くるりと向こうを向いて軽快に歩いて行く後ろ姿はまさにおてんばなお嬢さん。

「旅が私の仕事」
なるほど、なるほど。

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諸塚でやま学校しよう!

Posted on 2014-07-10

諸塚村

働く、食べる、ただそれだけの小さな旅はいかがですか

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第129回目のやま学校に同行した。今回の参加者は7名、5歳の子ども2人、龍胆君と太麒君、中学生の幸之介君とそのお父さんたち3名。定年後は頻繁に参加するようになったという諸塚やま学校常連の横山さん。
東京からIターンして諸塚村観光協会で働く田邉薫さんがリードし、同じく村外から来ているスタッフと一緒に過ごす一泊二日の山暮らし体験である。

まず始めに毎年恒例の田植え。地元の田原忠二おじさんが準備してくれた田んぼと苗、赤黒く実る古代米と普通の米を縞模様になるように植えていく。はじめは余裕で始まった田植えだったが、強い日差しの中、半分を終えた頃には皆無口、子ども達もお父さん達もスタッフもただ黙々と労働する集団となっていた。
植え終わってようやく安堵の表情を浮かべる人間を田んぼの横の池からイモリやメダカやオタマジャクシが余裕の視線で眺めている、そんな気がした。横を流れる川から涼しい風が吹いてきて、頭の上にはトンビが音もなく輪を描いていた。

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夕方からは場所を移して梅ちぎり。『へいだの里』は平田組という地区の自治組合が管理する古民家の宿泊施設。隣に住む増田富子おばさんと一緒にたわわに 実った梅を収穫、山のように穫れた実のヘタを取る下ごしらえをしながら、お父さん達は庭先に座りこんでゆっくり話をする。その一人、もう何度も参加してい るという片山さんはこう言った。
「十二年前から諸塚に縁があって通っているけれど、一度だって嫌な思いをした事がないんです。ここに来ると、日頃は切れている何かとつながれる気がします。」

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辺りが薄暗くなる頃には質素な食事が出来上がる。今夜は特別に最年長の横山さんが釣り上げてきたヤマメの塩焼きが飯台を賑やかにした。
両手を合わせて「いただきます」心の底からその言葉が素直に出てくる。そうか、この瞬間のために今日の一日があったのかもしれない。小さい二人も、時間はかかったけれど苦手だった椎茸も残さずきれいに平らげた。

何の飾りもないやま学校に多くの人が惹きつけられる理由も、田邉さんたちがこの村に住み続ける理由もその辺にあるのかもしれない。

食事の後、蛍を見に行った皆と別れて帰路に車を走らせたとき、片山さんが言っていた言葉を思い出した。
「夜になると向こうの山に点在する家の明かりと、星の区別がつかなくなるんです。」
諸塚はそんな村です。

『諸塚でやま学校しよう!』に関する情報は>>諸塚村観光協会

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ひでじビール

Posted on 2014-07-10

延岡市

僕らがビールを作るんじゃない。
酵母が働きやすいようにお世話に徹するだけです。

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2006年以降 延岡のひでじビールが本当に美味しくなったのには 単純な理由がありました。

「正直言って、以前のひでじビールは旨くなかった。」

意外にも製造責任者の片伯部智之さんはそんな事を言った。それは、今のビールに対する自信の表れ。なぜ以前は旨くなかったのか、どうやって全国でも屈指のクラフトビールメーカーに変身したのか?
その答えは、実は単純。足し算ではなく引き算の努力でした。

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1996年、全国的な地ビールブームの中『ひでじビール』は誕生した。ドイツ式の設備と技術で醸造を続けてきたが、本当に美味しいビールはなかなか作れない。十年の試行錯誤の末にたどり着いた結論が、日本の気候、環境のもとで、ドイツと同じやり方では美味しいビールは出来ないということ。
目に見えない雑菌が味や香りを悪くしているのではないか?ビール作りで最も大切な酵母の性質が安定していないのではないか?片伯部さんたちはそう考え、工程を根本的に改善した。
発酵タンクや原料が通る配管を分解して滅菌、数時間かかるその作業を仕込みの度に丁寧に繰り返す。
味と香りを決定づける酵母菌も少しの変化も許さないように自社で純粋培養するようにした。
ビール作りの最もシンプルで最も大切な部分だけを残して、そこに収束して行く努力の結果、本当に美味しいビールを生みだすことに成功した。2009年には主力の『太陽のラガー』が国内の地ビール二大コンテストで金賞を受賞し、やっと順風が吹き始めたと思われた矢先、新たな危機が起こる。
2010年、親会社がビール事業から撤退することを決めたのである。
このまま、ひでじビールが消えて行くのかと誰もが思ったが、社員たちのビール作りに対する情熱がそれを許さなかった。永野時彦(現社長)を中心に社員が団結、無一文からのスタートだったが、様々の支援や協力を得て新会社を設立、『ひでじビール』を守ったのだ。一度は「美味しくないビール」のイメージがついてしまった『ひでじ』というブランド名にこだわるのは、これから本当に美味しいビールをここで作り続けて行く事への覚悟の表れ。

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瓶詰めの太陽のラガーをグラスで飲む時には、最後に瓶を揺すって、底に眠っている酵母をグラスに注ぐ。黄金色のビールは少し白濁し酵母たちが目を覚ます、そこを美味しく飲み干す。
それがひでじビールを作ってくれた酵母たちへの敬意と感謝を表す流儀。片伯部さんは最後にそう教えてくれた。

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